紅葉のみちしるべ・おまけのお話


【1】

「町に芝居小屋が来ているんだって。奇抜で刺激的で、面白いらしいよ」

 若い女性が興味を持ちそうな話題を振ったつもりなのだが、紅花は表情一つ変えず、黙々とご飯を口に運び続けている。
 少し前までは返事くらいはしてくれたのに、最近はそれすらない。

 仕事が忙しくて二人で過す時間を作れなかったのがいけなかったのだろう。紅花の俺に対する態度は、ますますそっけないものになっていた。

 夕食を一緒に食べるのは本当に久しぶりなのに、俺の顔よりもおかずを見つめる時間の方が確実に長い。なんともせつない気持ちになる。

「純愛物と怪奇物の芝居を見せてくれるらしいんだけど、紅花はどっちが好きだ?」

 とにかくこちらに注目させようと話しかけるのだが、紅花は親指と人差し指を使って俺の焼き魚と自分の焼き魚の大きさを真剣に見比べている。

 ああ、きっと交換しろと言われるな。

 そんな事を思いながらも、芝居小屋の話を続けた。

「俺は純愛物が好きだな。怪奇はちょっと苦手だ。紅花はどうだ?」

 首を上下に動かしながら魚を見ていた紅花の目が、不機嫌そうに細められる。

「義樹はうざい。うざいから、この焼き魚は没収」

 俺の御膳から素早く焼き魚を取り上げると、うっとりしながら箸を躍らせた。

 紅花にとって俺の存在は、焼き魚よりも下に位置しているようだ。

 半端な話題を振っても焼き魚には勝てない。何か策はないだろうか?

 焼き魚に勝ち、尚且つ紅花に頼られるような話題を探していて、ふと思い出す。

 幼い頃にセツから聞いた、離れ座敷に出ると言う幽霊の話。

 最初に幽霊のことを聞いたのは、まだ3つか4つくらいのときだったと思う。

 当時は寝小便を垂れるほど怯えてしまったが、今考えるとそれは、目の届かない離れ座敷で俺が遊ぶことを避けるためについたウソだったのだろう。

 現に何ヶ月も寝泊りをしているけれど、幽霊など一度も見たことはない。

 離れ座敷に出る幽霊の話なんてすっかり忘れていたけれど、ここで思い出したのは何かのお導き。ぜひ使わせていただこう。

「そういえば紅花、大丈夫か?」

 焼き魚を2匹食べて機嫌が良くなったのか、珍しく紅花がこちらを見て笑った。久しぶりに見せてくれた笑顔が恐怖に歪むのは可愛そうだが、やると決めたからには最後までやり抜くのだ。

「この部屋さ、……出るんだ。なんでも、俺のジイサンのそのまたジイサンがな、虐めて死なせてしまった女の幽霊と、ネズミの幽霊……」

 それっぽく、適当に言葉を紡ぐ。デタラメな怪談は、自分でも驚くほど流暢に口から滑り出してきた。

「虐め方が酷いんだよ。 元気になるぞって言って、女中に肉団子を食べさせたんだけど……。何の肉だったと思う?」

 そろそろ会話に参加してもらいたくて、紅花の返事を待つ。

「紅花、何の肉だったと思う?」

 しつこく聞き続けると、紅花は不機嫌そうに睨んで「しらん」と呟いた。

 声がいつもより小さい気がする。平気そうな顔をしているけれど、案外怯えているのかもしれない。

 そう思うと、デタラメ怪談を語る口調にも熱が入る。

「なんと……ネズミの肉だったんだ。女は次の日、原因不明の病で死んでしまった。それ以来、この離れ座敷には死んだ女と肉団子にされたネズミの幽霊が出るらしい」

 語り終えた途端、室内は妙な静寂に包まれた。なぜか背筋に氷を押し当てられたように震えてくる。

 ウソだと知っている自分でもこんなに怖いのだから、知らない紅花にはそうとう効いているはずだ。

 食事をする紅花の手が止まっているのを確認すると、俺は作戦の成功を確信した。後は、「幽霊なんて怖くないよ。俺がついているんだから」とか言ってやれば、焼き魚なんて目じゃない。もしかしたら、砂糖菓子や干しイモにだって勝てるかも。

 作戦が成功した後のことを楽しく妄想していたのだが、紅花の箸が再び動き出した途端、現実に引き戻される。

 紅花は椀の中に沈んでいる肉団子を摘むと、一口齧ってにやりと笑った。

「この団子は魚の肉だから大丈夫よ。義樹も安心して食べて」

「……わかっているよ。そんな事」  

 わかっているのだが、今日は肉団子を食べたい気分ではないので残すことにした。


 

 幽霊の話は思ったよりも効いていないのだろうか?

 けれど、食事の途中で紅花の箸が止るのはとても珍しいことだから、少しは効いているはずだ。もっと怖い話を追加しようかと考えていると、紅花の箸が再び止る。

「ねえ義樹。さっきの話だけれど」

 やはり幽霊の話に食いついて来た。これは好機だ。このまま怯えさせてやろう。

「やばいぞ。幽霊の話をすると、幽霊が寄って来るなんて言うからな。今夜あたり危ないかも知れない」

「そう。じゃあ義樹は母屋に逃げた方がいいかもね」

「なんで? 幽霊が出るのは、紅花が寝泊りしているこの部屋だぞ」

「出る場所はあまり関係ないんじゃない? だって、幽霊は義樹のジイサンのジイサンに殺されたんでしょ? その曾孫の義樹は……幽霊にとっては調度良い復讐の相手なんじゃない?」

 思ってもみなかった事を言われ、体が震える。

「違うって! だって俺は曾ジイサンじゃないし。恨みを買っているのはもっと前のジイサンかも知れないし。案外、ジイサンの事なんか忘れてるかも知れないし!」

 紅花の視線がツッと上がる。俺の頭上をしばらく眺めた後、意味深に笑った。

「……どうかしら?」

 何か、見えたのか?

 悲鳴が出そうになったけれど、なんとか我慢する。そのかわり、瞳からはちょっぴり汁が出ていた。

 離れ座敷に出る幽霊は、俺の作り出したデタラメな話。呼吸を整え、姿勢を正して気持ちを引き締める。ここで取り乱しては、ただの怯え損だ。

「それより、紅花は平気なのか? 女とネズミの幽霊だぞ。ネズミなんて、生きていても不気味だろう」

「平気よ。義樹には言ってなかったけれど、私、ネズミは得意なの。昔ね、ねずみ取りの名人に弟子入りしていた事があるのよ。免許皆伝よ」

「ネズミ取り名人って、なんだよそれ。そんなのに免許なんてあるのかよ」

「ともかく、私は大丈夫なの。それよりも義樹は本当に平気なの? 怖いんだったら、今夜は私が一緒に寝てあげましょうか?」

「俺は平気だよ。俺だって、ネズミの一匹やニ匹、ぜんぜん平気。なんともない。うん、余裕」

「それなら安心ね。おやすみなさい」

 紅花は手を合わせて食事が終わった事を知らせると、相変わらず意味深な笑顔のまま布団に潜り込んでしまった。

 膨らんだ布団を眺めながら、「一緒に寝てくれる」と言う申し出を勢いで断ってしまった事を後悔する。

 もしかしたら、作戦は違う意味で成功しかけていたのだろうか?

 否、それでは立場が逆だ。

 目標は、「頼られる男」なのだから。 


【2】


 作ってくれたセツには申し訳ないが、今夜はもう食べられそうもない。

 片付けるために台所に向う途中、二つの対照的な御膳の減り具合を見て、自然にため息がこぼれた。

 一つはいつも通り綺麗に平らげ、もう一つは恐怖のあまり半分以上を食べ残す。なんとも情けない結果だ。

 重い気分の原因はもう一つ。

 食べ残すとセツにこっぴどく叱られる。さすがにこの歳で叱られるのは辛いが、今日はもう仕方がない。素直に謝って、今夜は早く眠ろう。


 台所に入ると、セツと雪が楽しそうにお茶を飲んでいた。俺の姿を確認して、雪は小さく頭を下げて微笑み、セツはいつも通りに御膳を引き取りに来てくれる。いつもと変わらない二人の反応に、心がやすらぐ。

「今日はずいぶんと遅いんですねぇ。そうそう、坊ちゃんは芝居小屋に行きましたか? 私は雪さんと行ってきたんですけど……」

 食べかけの皿を見た途端、楽しそうに喋っていたセツの言葉が途切れた。その反応を見て何か気づいたのか、雪はセツの視線を追うようにして食べ残しの皿を見る。

「今夜のお料理はお口に合わなかったんでしょうか?」

 残されていた肉団子を指すと、今にも泣き出しそうな顔をした。

「肉団子、せっかく雪さんが作ってくれたのにねえ」

 雪の背中をさすりながら、セツは咎めるようにこちらを睨む。食べ残しただけなのに、罪状が増えているようだ。罪を軽くするには、この場で雪の作った肉団子を食べるのが一番なのだが、それだけはどうしてもできない。

「雪が作ってくれたとは知らなかった。えっと、その、実は少しアタマが痛くて食欲が……」

 まさか適当に作った怪談のせいで怖くなり食べられなくなったとは言えず、苦し紛れに頭を押さえて辛そうな表情をして見せる。

「アタマが、痛いんですか?」

 セツと雪は顔を見合わせると、不安そうな顔をした。

「そんなに心配することじゃないんだ。一晩寝れば治るから」

 心配かけまいと取り繕ったのだが、二人は深刻そうな顔のまま。

 セツと雪は何やらこそこそと言葉を交わして肯き合うと、俺に少し待つように言ってから菓子などを入れている戸棚を開いた。

 何を探しているのだろうと聞こうとしたとき、それは見つかったようで、セツと雪は再び顔を見合わせてため息を吐く。

「これに頼らなければならないときが来てしまいましたね……」

 セツは真剣な表情で、何かを俺の手に押しつけてきた。手を開いて確認しようとしたのだが、その手をセツに強く握られる。

「これ、何?」

 触った感じからすると、紙切れのようだ。

「何も聞かず、持って行ってください。きっと坊ちゃんと紅花お嬢さんを守ってくれますから」

「そんな言われ方したら、聞かない方が不安になるだろう」

「いいから、聞かないで下さい。あの離れ座敷に幽霊なんて出ませんから」

 セツから幽霊の話なんて何年も聞いていなかったのに、なんという偶然。こんなときに聞くと、ウソだとわかっていても不安になってしまう。

「なにそれ。出るってこと? ねえ、幽霊って本当に出るのか?」

 セツは口元を押さえると、目を伏せた。

「……ネズミの幽霊なんて、出るわけないじゃないですか」

「出るのかー!」 

 ネズミの幽霊は、ついさっき俺が作ったウソの話だ。

 それをセツと雪が知っているという事は、先ほどの会話を盗み聞きしていたに違いない。そうでなければ嫌だ。

「俺は驚いたりしないぞ。今なら盗み聞きのことは怒らないから、本当のことを言ってくれよ」

「ひどい! 私たちは盗み聞きなんてしません。ネズミは苦手ですから、離れ座敷には行けないし」

 セツの背後に隠れ、雪が何か汚れたモノを見るように眉をひそめる。むしろこちらが「ひどい」と非難したい気分なのだが、雪が相手ではなぜか強く言えない。

「いや、だから、幽霊は……」

 はっきりとは憶えていないけれど、離れ座敷に幽霊が出るという話は、幼い頃にセツから聞かされた。でもあれは、子供だった俺が離れ座敷で勝手に遊ばないようにするための戒めのようなものではなかったのか?

 考えてみると、俺はウソをつくことがとても苦手だ。

 小さい頃に何度がイタズラをごまかそうとしてウソをついたけれど、話せば話すほど矛盾だらけになり、最後にはどうしようもなくなって自分から謝っていた。イタズラを隠すためにウソまでついたので、二重に叱られたことをよく憶えている。そのたびに、ウソの話なんて作るものではないと思ったものだ。

 あの頃よりも大人になったけれど、ウソの作り話が上手になったとは思えない。

 それならば、口からスルスルと滑り出してきたネズミの幽霊の話は何なのだろう?

「ネズミの肉団子を食べて原因不明の病に倒れた女は……」

 あることに気がつき、セツに聞えるように作り話の内容を呟いてみる。

 その途端、セツと雪は目を見開いて体を寄せ合った。

「あらやだ。坊ちゃんはちゃんと憶えていたんですね。それなのにあの離れ座敷に寝泊りするなんて。肝試しですか?」

 つまり、ネズミの怪談は俺が作ったものではなく、セツから聞いた話を無意識に思い出して喋っていただけということ。

 と、言う事は、本当の話?

「嫌だ! もう離れ座敷になんか戻らない。自分の部屋に帰る」

「何を仰っているんですか。紅花お嬢さんが待っているんでしょ?」

「紅花はネズミ取り名人の弟子で免許皆伝だから平気なんだよ。ネズミなんて楽々なんだよ」

「何をふざけたこと言ってるんです! 幽霊が出る部屋に女の人をひとりぼっちで置いておくなんて、最低ですよ」

「だって紅花はこの話を聞いても怖がってなかったもん。あいつは幽霊もネズミも平気なんだよ」

「いいかげんにしてください!」

 机を叩きつけながら、珍しく雪が大きな声を出した。穏やかでおとなしいので怒鳴ったとしても可愛いものだろうと思っていたけれど、実際に見るとなかなか迫力がある。セツと二人でつかみ合ったまま、小さな声で「ハイ」と返事をして後退りした。その返事によりセツは許されたようで、雪は俺だけを斜め下から見上げて睨む。

「若旦那さまは、紅花様が心配じゃないんですか?」

「心配だけど、アイツはねずみ取り名人だし。幽霊は怖くないみたいだし」

「それは、若旦那様がついていてくれると信じているからです」

 そんなに頼りにされているのなら、幽霊の話をして怯えさせてやろうなどど思わなかったのだが。

「そうか? 俺にはそんな風に思えない」

「若旦那さまは紅花様のことを愛しているのでしょう?」

 名前だけとはいえ、本妻である雪からこんなことを聞かれて思わず噴出す。

 雪との関係は形のみで、そのことをお互い理解しているけれど、面と向って他の女を愛しているとは言い辛い。

 なにより、興味津々という顔でこちらを見ているセツの前で言うことだけは避けたい。

「それはその……」

「はっきり言って下さい!」

 適当な言葉でごまかしても、雪は少し怖いくらいの顔で凄んでくる。普段はとても穏やかで優しげなのに、なぜこんなにムキになっているのだろう。もしかしたら、この微妙な関係をそろそろ解消したいと思っているのだろうか? 

「う……、うん」

 小さく首を縦に振ると、雪の表情が鬼の形相から仏の笑顔に変わる。その変化に、なぜか拍子抜けした。

「だったら守ってあげてください。紅花さまは、きっと若旦那さまを信じて待っています。行ってあげて!」

 雪に背中を押され、台所を後にする。

 少し歩き出した所でセツに引きとめられ、お札を落さないようにと注意された。セツの「芝居小屋よりもドキドキしました」という独り言は、聞かなかったことにする。


【3】


 明かりは点けたまま出てきたはずなのに、なぜか消えていた。

 紅花が消したのだと思うのだが、幽霊の話をしたばかりだからか、どうしても恐ろしい想像をしてしまう。

 やはり今日は母屋で休もうか?

 無意識に足を退きかけたとき、手の中にあるお札の存在を思い出す。

 渡されたお札は二枚。暗いので何と書いてあるかはわからないが、明るくても複雑なお札の文字など読めはしない。

 落さないようにしっかりと握っていたので、真ん中あたりが少し折れ、汗を吸ったのか少しよれよれになっていた。

 紙クズと間違えてしまいそうな姿に、ご利益が半減したのではないかと心配になる。  

 頼る事ができるのはこのお札と、ネズミ取りの免許皆伝という紅花の腕のみ。

 否、紅花は守るべき対象なので、やはりお札だけだ。 

 雪に言われた言葉を思い出しながら、そっと部屋の戸を開く。

 部屋の中は暗いので何も見えない。目を凝らすと、紅花の布団がいつも通りの大きさに膨らんでいるのが見えた。

 まだ何も起こっていないようで、安心して中に入る。

 本当ならば叩き起こして母屋に連れて行きたいけれど、紅花は寝起きが悪く、一度眠ってしまうと朝になってもなかなか起きてこない。明日からは母屋に移るとしても、今夜はここで朝を待つしかないだろう。

 紅花に背を向けて、少し離れた所に腰を下ろす。 

 いつもなら、夜は眠っている紅花に近付かないようにしている。

 理性を保ち続ける自信がないという訳ではないし、乱暴をはたらくつもりもない。

 それでもときどき、強引な行動に出たらどうなるだろうと考えてしまう。

 表向きには「妾」と言われ、紅花も「妾」であると理解したような発言をしている。

 実際には既成事実はなく、お互いの気持ちの確認すらしていない。

 薄い襖一枚で分けられた部屋で寝泊りを続けていると、どうしても自分に都合の良い甘えた考えが浮かび、迷うのだ。

 信頼されているのか、それとも試されているのか。


「……」

 背後からの物音により、現状を思い出す。

 紅花が寝返りを打ったらしく、布が擦れる音が響いた。

「……」

 音の正体はわかっているけれど、どうしても不気味に聞えてしまう。

「紅花、寝相が悪いぞ」

 小声で呟いても寝返りが収まるはずもなく、乾いた音は響き続ける。

 ガサガサ。ガサガサ。

 いくら寝相が悪いと言っても、こんなに続いて音がするのはおかしくないだろうか?

 振り返って確認しようかと思ったけれど、ほんの少しだが邪な考えを廻らせていた直後なので戸惑ってしまう。

「チュー」

 迷っていると、あきらかに布が擦れる音ではないものが聞えた。

 声にならない叫びを上げながら、ゆっくりと振向く。

 布団の膨らみに変わらないけれど、ときどき不自然に波打っている。

 ガサガサ。ガサガサ。

 室内に響く布の擦れ合う音が不気味に響く。

 ガサガサ。ガサガサ。

「チュー」

 布の擦れる音にまぎれて、もう一度「違う」音がした。 

 大丈夫。お札があるのだから、幽霊が出たとしても大丈夫。ちょっとシワがあって、汗を吸ってヨレヨレになったお札だけど、神様はそんなことでご利益をケチったりしないはず。

 自然に早くなっていく鼓動を落ち着かせたくて、左胸をさすって呼吸を整える。

 少し冷静さを取り戻したかと思ったとき、ちょっとした疑問が浮かんだ。

 お札って、どうやって使うのだろう?

 何かに貼るのか? それならば、どこに貼るのだろう? 幽霊に直接貼るのか? どうやって?

 それに、お札の神様ってどこの神様だ? 何の神様だ? 信者じゃなくても助けてくれるのか?

 一瞬のうちにさまざまな事が頭の中を駆け巡り、結果、どうしようもなく不安になって泣き出しそうになる。

 それでも、紅花だけは助けなければ。

 きっと正面から戦いを挑んでも勝てはしない。幽霊相手に卑怯などという言葉も関係ない。

 先手必勝、心の中でそう叫ぶと、ガサガサと動く布団に向けて全力でお札を叩きつけた。

 肉を叩く、嫌な感触が手に伝わる。その途端、布が擦れる音が消えた。

「……やったか?」

「何をやってくれるのよ!」

 途端、布団が大きな波のように捲くれあがる。その中で、何かが赤く光った。

「嫌だー! ネズミ女怖い」

 頭に激痛が走ったかと思うと、布団の波に飲み込まれた。


【4】


 薄暗い部屋の中、ロウソクの明かりが紅花の顔を照らしていた。

「紅花?」

「何よ?」

 見下ろされている為か、橙色の炎に照らされたその表情は、いつもより怒っているように見える。

 起き上がろうとしたけれど、頭がひどく痛んで動けない。

「頭が痛い」

「そうね。大きなコブができているわ」

 紅花の冷たい手が、頭の痛む部分に触れた。その手つきは労わってくれているというよりただ触っているだけ。それでも、とても心地よい。

「なあ、この部屋やっぱり出るらしいからさ、今夜から母屋で寝ないか?」

「別に出ても平気よ。私は幽霊も妖怪も怖くないから」

 不敵な笑顔を浮かべ、肝の小さな俺を笑う。情けないけれど、怖いものは怖いのだから仕方がないだろう。

「じゃあ紅花は、何が怖いんだよ」

「饅頭。それと、水飴。旬の水菓子と木の実。それから……」

「それは好きなものだろう。俺が聞いているのは、怖いものだよ」

「私の怖いモノなんて聞いてどうする気?」

「どうするって、何から紅花を守ればいいか、わからないからさ」

 紅花は大きく目と口を開いて固まった。

「……え」

「そんなに驚くことないだろう」

「私、怖いものなんて無いわ」

「今はなくても、これから出てくるかも知れないだろ。そのときは、ちゃんと教えてくれよ」

 瞼が重くなり、意識がぼんやりとしてくる。頭はズキズキと痛むけれど、体はだるいような、心地よいような不思議な状態。

 気になることはたくさんあるのに、もう今夜は動けそうもない。

 寝入る前に「ありがとう」と言われたような気がしたのは、願望が聞かせた幻聴か?

 そして、軟らかい女の膝を枕に眠っているように感じるのは、頭が痛みすぎて感覚が狂っているからなのか?


【5】


 変な姿勢で寝ていた為か、体が痺れて痛い。なんとか置きあがると、すぐ側で紅花が穏やかな寝息を立てていた。

 なぜこんな近くで眠っているのかと混乱するが、すぐに昨夜のことを思い出す。

 どうやら、幽霊には襲われなかったらしい。

 安心した途端、力が抜けて座り込む。

 ふと、紅花の布団の側にシワシワの紙切れが落ちていることに気がついた。

 これは昨夜、紅花の布団に向って叩きつけたお札だ。このお札が効いて、幽霊から守られたのだろうか?

 拾い上げてみると、そこには「○○座、夜の部・ご招待券」と書かれていた。今、町に来ている芝居小屋の招待券らしい。

 これは、セツと雪に騙されたということたか?

 乾いた笑いがこみ上げてきて、さらに力が抜けて再び寝転んだ。

「朝から楽しそうだけど、どうしたの」

「悪い、起こしちゃったか?」

 こんな時間に紅花が目を醒ますなんて珍しい。もしかしたら調子が悪いのだろうか。心配して様子を見たのだが、どうやらただ寝ぼけているだけのようで、目を擦りながらムニャムニャと口を動かしている。いつものキツイ目は、とろりと下がっていてなんだか可愛らしい。

「芝居小屋の招待券を貰ったんだ。一緒に行かないか?」

「芝居? どんな内容の?」

「純愛物と、怪奇物らしい。どっちが見たい?」

「純愛と怪奇か。そんなものは決まっているじゃない……」


 仕事をなんとか片付けると、紅花と二人で芝居見物に出かけた。

 考えてみると、夜に二人きりで出かけるのは初めてだ。汗ばむ手の平を着物で綺麗に拭い、紅花に手を差し出す。

「なあに?」

 不思議そうな顔をして、差し伸べた手と俺の顔を交互に見る。

「え? えっと……」

 こちらの心情をさっぱり理解しない紅花は、少しだけ首を傾げると芝居小屋の前に並ぶお菓子の屋台を指差して笑った。

 その態度はいつもとまったく変わらなくて、思わず脱力してしまう。そして、自然に笑いがこみ上げてくる。

「何を笑っているのよ。さ、行きましょう!」

 紅花に手を引張られ、芝居小屋の中に入った。


 余談だが、本日の演目は「怪奇、ネズミ女対若旦那」という怪奇物。

 本妻がいるにもかかわらず、妾を連れ帰ってきた若旦那を懲らしめるお話。

 優柔不断な若旦那に本妻激怒、怒りのあまり死亡、幽霊となって復活して夫を懲らしめる。実は妾が大妖怪だったという衝撃の事実。密かに若旦那に恋心を抱いていた女中の献身的な愛情。そして殺戮。唐突に現われるネズミの幽霊。軽快に踊るネズミ。歌うネズミ。なぜか本妻と心を通わせるネズミ。かと思うと、本妻の手により肉団子にされる哀れなネズミ。

……という奇抜な物語で、よくわからないけれど胃が痛くなった。


【終】